59回目のヒロシマ2004夏(湯浅一郎)

 9日、長崎から車で戻り、やっと、5日からの一連の行動を無事終えました。 ちょっと前の、7/31からの松山、今治行きも含めると、余りに盛りだくさん で、まだ整理ができませんが、59年目の広島・長崎を、一つながりのものとし て意識することができました。  メインの8/5夜の「平和へのつどい」は、多くの提起者がいましたが、それ ぞれ短い時間に的確な提起をいただき、充実したものになりました。参加者も、 久方ぶりに200人を超えました。テーマは、船越えさんがほめてくれましたが、 < ヒロシマからの再出発、憲法九条で戦争を止めよう>でした。時宜を得てい たと思います。 市民の平和宣言は4000枚まきましたが、結構読まれているのかもしれませ ん。 読売呉支局の記者から電話がありました。大黒神島の基地化に関しての見解を求 められました。 グラウンド・ゼロのつどいを始めて、毎年、ここでダイインをしているが、い つも思うのは、宇宙、人間のふしぎさと情けなさである。14万人もの市民が、 一瞬にして、焼けただれ、風で吹き飛ばされ、放射線を浴び、そして命を奪われた ヒロシマ。 今年気になったのは、憲法との関連で言えば、全国の150カ所弱で、無差別の 空襲が行われていたことを、何とか一つの系統的なものにすべきである。 9時前、ピースウオークに。平和巡礼団の50−60人が参加しているおかげ で、隊列は150人を越えていた。9:30−10:30,中電本社前での反原 発の座り込みである。午後は、つき合いで行っている集会に顔を出し、4時から は、「核兵器廃絶を目ざすヒロシマの会(以下、HANWA)」主催「国際対話 集会の夕べ」。200人?を超える一が来てくれた。中身も、ウイラーマントリ イさん、サルマさん、ケン・オキーフさん、嘉指さん、岡本さんと充実していた。 海外ゲストとの交流会は、途中で抜けて、長崎行きの準備。  7日は恒例の広島湾スタディ・クルージング。いつもと違い、似島に上陸。坪 井さんの話は、やはりうまい。被爆をして収容されていた現場で、直に話を聞い たことは忘れられないことになるだろう。  3:30,港に着く。すぐ、車の準備をして、進藤、久野、修道大生らと車2 台で長崎に向かった。翌日は、進藤さんの案内で、長崎の観光、文化案内。大浦 天主堂、孔子廟、オランダ坂、そして昼食を取り、午後は、クルーズに。全体と しては、「広島湾スタデイ・クルージング」の相対的な良さを実感するとともに、 最後の端島は圧巻だった。30年前に放置された炭坑の島が、まさに廃墟となり、 今も当時のコンクリート作りのまま残っている。この姿は、人々を圧倒する。風 がなく凪いでいたため、船は、ゆっくりと島の周りを回った。ちょうど、「おお すみ」の周りをゆっくりと走るのと全く同じ構造である。それにつけても、化石 燃料に依存した文明の行く末を象徴しているかのようで、文明のはかなさと言っ たものを実感した。  夜は、6時から全国交流会議。約25人。東京、浜松、名古屋、大阪、広島、 北九州、そして長崎である。各地でのこの間の運動を報告し、当面の方針につ いて議論しようと言うことで集まった。4月から、しばらく、ゆっくりと情勢 を分析し、方針を考えると言うことが出いてなかったので、これはいい機会に なった。後の交流会も、そこそこ盛り上がった。9日は、朝から、朝鮮人被爆 者の追悼集会に参加した後、資料館を見る。10時からの市民集会に参加。は じめの方で、広島からと言うことであいさつをする。  帰りは、午後2時前に一人車に乗り出発。やや眠くもあり、途中何回となく休 憩をとる。それでも、9時前にはついた。  5日から9日まで、広島・長崎を意識しての、一連の行動がようやく終わった 。10年以上前に、大畑さんと長崎に同行したことがあったが、広島で、責任を 持っての一連の行動をするようになってからは初めてのことだ。頭では、日本の 降伏にとっては、広島・長崎は必要なく、戦後の始まり方をアメリカの支配の元 に進める政治的な意図がみえみえと言うのはわかっているのだが、実際に、ふた つの町を、この時期に渡り歩くことは大切だ。一度は、やってみるべきだと呼び かけたいと思う.